7月6日(主日)説教要約
希望の力

## 希望の力
**本文:** 詩篇 17:14-15
14 主よ、この世で自分の分を受けている世の人々から、御手をもって私を救い出してください。彼らはあなたの財産で腹を満たし、子供たちに満足し、残りの財産を幼い子孫に遺贈する者です。
15 私は義のうちにあなたの御顔を見るでしょう。目覚めるとき、あなたの御姿に満足するでしょう。
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### 序論
最近、韓国で使われている言葉は変化が激しく、「今回の人生はダメだ(이생망)」や「完全にクレイジーだ(완또)」のように、理解しにくい言葉が多く生まれています。
人生は、今の世、すなわち今生きている世界がすべてではありません。もしこの世がすべてだとしたら、私たちはこの世でどうにかしてうまく生きようとするでしょう。この世は、しばらく生きて去っていく旅人のようなものです。
聖徒は、目に見えるこの世に頼りません。聖徒は、目に見えない永遠の神の国を慕いながら生きています。しかし、聖徒であっても、この世の生活があまりにも辛く、厳しく、重荷に感じるとき、落胆しやすくなります。
神は、愛する子供たち、すなわち聖徒が落胆しないように、御言葉と聖霊を与えてくださいました。そして祈りの力を与えてくださいます。聖徒が御言葉と聖霊に満たされ、祈るとき、環境や条件に関係なく、喜び、楽しみ、神を賛美することができます。
私たちに来世への希望があるとき、偉大な力が現れます。希望は、神が聖徒に与えてくださる偉大な贈り物です。
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### 1. 世の人々の希望 (詩篇 17:14)
「14 主よ、この世で自分の分を受けている世の人々から、御手をもって私を救い出してください。彼らはあなたの財産で腹を満たし、子供たちに満足し、残りの財産を幼い子孫に遺贈する者です。」
#### この世で自分の分を受けている人々
この世で自分の分を受けている人々がいます。彼らは富と名誉を得たり、権力を手に入れたりします。財産が十分にあって、したいことを自由にできる人もいます。権力と権勢を握り、思うがままに振り回す人もいます。他の人が死んでも構わないと、自分だけが生き残って権力を享受しようとする人もいます。他の人を犠牲にしたり、殺したりして、その屍を踏み越えて成り上がる人もいます。
#### 貧しい者を圧迫する人々
この世で自分の分を受けて富裕になり、財産を正しく使う人もいます。彼らを世間では義人、あるいは偉人と呼びます。そのような人々の中には、イエス・キリストを信じて救われる人もいます。しかし、大多数の富裕層は貧しい者を見下し、圧迫し、お金の力で他人を自分の召使いにしようとします。
詩篇の記者は、貧しい生活をしながらも、彼らから救い出してほしいと神に祈りました。神は貧しい者の祈りを拒まず、応えてくださいます。神は孤児たちの父となり、やもめたちの裁き主となられます。
#### 遺産相続
「彼らはあなたの財産で腹を満たし、子供たちに満足し、残りの財産を幼い子孫に遺贈する者です。」
お金を使い切ることもできずに世を去る人が多くいます。食べ物が余るほどたくさんあって、心ゆくまで食べたり飲んだりし、子供たちに満足し、さらに残ったものを幼い子供たちにまで遺産として相続する者がいます。しかし、イエス・キリストを信じなければ、彼らは希望のない者たちです。彼らは死後、裁きを受け、永遠の火の池で苦痛を受ける者たちです。
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### 2. 聖徒の希望
#### 希望は目に見えるものにはない
目に見えるものに希望を置いて生きるならば、聖徒とは言えないでしょう。聖徒は信仰によって生きる者たちです。信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を納得することです。
目に見えるものはすでに実現していることであり、信仰とも希望ともなりえません。信仰と希望は目に見えないものです。
ある聖徒は、目に見えるものにも頼り、目に見えないものにも頼り、二股をかけて生きています。神はそのような聖徒を喜ばれません。神は目に見えないものを希望して生きる者たちを喜ばれます。
#### 希望は目に見えなくても実在する
私たちが信じ、望むものは想像ではなく、実在するものです。神の国、すなわち天国は目には見えませんが、実在するものです。神は目には見えませんが、実在するお方です。聖霊も目には見えませんが、実在するお方です。天使も目には見えませんが、実在する存在です。それゆえ、私たちは目には見えなくても実在する存在を望み、信じ、従うのです。
神は、このような希望を持ち、神を希望しながら生きる聖徒を貴いものと見なし、喜ばれます。
#### キリストの花嫁
私たちの最大の希望は、キリストの花嫁、すなわち教会、小羊の妻となることです。神は天地創造の前にこれを計画されました。神はキリストにおいてこれを予定されました。時が満ちると、キリストを人間の体で世に送られました。御子なる神は、十字架の上で血を流し、その血の代価によって教会を買い取られました。そして聖霊を送られ、キリストの花嫁、すなわち教会として成長させておられます。
キリストが再臨されるとき、教会、すなわちキリストの花嫁は空中でキリストと出会い、千年王国でキリストと共に王のような祭司として治める祝福を受けます。
これが真の希望です。この希望がなければ、存在の価値もなく、人生の価値もありません。
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### 3. 復活の希望
「15 私は義のうちにあなたの御顔を見るでしょう。目覚めるとき、あなたの御姿に満足するでしょう。」
#### 義人の特権と義務
聖徒は罪人の身分でしたが、キリストの義を信じることで義とされた義人たちです。それゆえ、聖徒は生きていても死んでいても義のうちにいなければなりません。キリスト者は、生きていても主のために生き、死んでも主のために死ぬ者であり、生きていても死んでいても主のものです。
キリストによって義とされた聖徒たちは、キリストの義に頼って生き、その中に住み、その義を伝える者たちです。そう生きる者たちは、いつどこでこの世の死を迎えても、キリストの義の中にあるのです。
#### 義のうちに御顔を見る
義のうちに主の顔を見る、と告白しています。神の義はキリストを通してのものです。神の義は律法が求める義も含まれます。したがって、旧約の聖徒たちが来たるべきキリストを待ち望み信じたのだとすれば、新約の聖徒たちは来られたイエス・キリストを待ち望み信じるのだと言えます。それゆえ、旧約の聖徒も新約の聖徒も、皆キリストの義を通して救いを受けることができます。それゆえ、義のうちに主の顔を見る、と告白したのです。私たちはやがて、義のうちに主の顔を見ることになるでしょう。
#### 目覚めるとき、御姿に満足する
「目覚めるとき」とは、毎日の生活の中で眠りから目覚めるときという意味よりも、最後の眠りから目覚めるときを意味します。そのとき、私たちは主の御姿に満足するでしょう。これは、主の御姿を見ることで満足するという意味が含まれています。そして、私たちが最後の眠りから目覚めるとき、すなわち主の再臨の日に、私たちには復活の日となるでしょう。
その日、私たちは栄光ある復活の体を得るでしょう。その体はキリストの栄光の体と同じ体になるでしょう。それゆえ、「目覚めるとき、御姿に満足する」と告白したのです。
この希望は、他のいかなる希望よりも重要で真の希望です。これ以上に良い希望はないでしょう。私たちはイエスが再び来られるとき、空中で栄光ある復活の体を着て主に出会い、主の御姿に満足しながら、常に主と共にいるでしょう。
これが私たちの最高の希望です。これを目標として、目に見える世のものに頼らず、日々、あの高きところを目指して進みましょう。
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### 結論
希望に関する聖句は聖書に多く出てきます。しかし、具体的な聖句を一つ選ぶとしたら、今日の聖句を選ぶでしょう。
聖徒は、目に見えるものに頼って生きる富裕な人々と同じであってはなりません。目に見えるものを希望とする人は、それが失われたときに希望も失われるからです。世で成功し、財産が多すぎて子供に遺産を遺す者をうらやましがらないようにしましょう。
生きていても死んでいても義のうちにいる聖徒になりましょう。最後の眠りから目覚めるとき、第一の復活(最高の復活、特級復活)に参加し、義のうちに主の御顔を見て、主の御姿に満足する聖徒になりましょう。これこそが最高の希望の力です。