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10月5日(主日)説教要約

聖餐の意義

10月5日(主日)説教要約

聖餐の意義 (せいさんのいぎ)



聖句:コリント人への手紙第一 11:23-26



23 わたしがあなたがたに伝えたことは、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、渡されようとした夜、パンを取り、

24 感謝の祈りをささげてこれを裂き、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念して、これを行え」。

25 食事の後に、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしを記念して、これを行え」。

26 だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのである。



序論(じょろん)



聖餐(せいさん) の意義について深く考えてみたいと思います。旧約時代には聖餐式はありませんでしたが、予型(よけい)となるような出来事はありました。それは、アブラハムに現れた神秘的な人物 メルキゼデク に見出すことができるでしょう。

聖餐式は、イエス様 によって制定されました。聖餐のパンはイエス・キリストの肉体を象徴し、ぶどう酒は彼の血を象徴しています。

パウロはコリント教会への手紙の中で、悪霊の杯と聖餐を対比させながら、聖餐の意義をよく解き明かしてくれました。

今日は 世界聖餐週間(せかいせいさんしゅうかん) を迎え、聖餐の意義を改めて心に刻み、神様の恵みを受けたいと願います。



1. 聖餐の模型(かたち)(創世記 14:18-20)



「18 サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼は、いと高き神の祭司であった。19 彼はアブラムを祝福して言った、『天と地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されるように。20 わたしの敵をあなたの手にわたされた、いと高き神がほめたたえられるように』。アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った。」



戦いの後(たたかいのあと)



ケドルラオメル王を中心とした4か国の王たちが連合軍を組み、ソドムとゴモラ王を中心とした5か国を攻め、征服し、ソドムに住んでいたアブラハムの甥 ロト が捕らえられました。

アブラハムは私兵318人を率いて夜間攻撃を仕掛け、ロトを取り戻しました。



メルキゼデクの出現(しゅつげん)



その時、ソドムの王も迎えに出ましたが、サレムの王 メルキゼデク がパンとぶどう酒を持って現れ、彼らに食べさせ、いと高き神の祭司 として神の祝福をしました。私たちが勝利した後には、世の祝福を持ってくる王と、天の祝福を持ってくる王が来ます。メルキゼデクは、天の永遠の祝福を持って来られる イエス・キリストの予型(よけい) です。



十分の一(じゅうぶんのいち)



アブラハムは得た物の中から 十分の一 をメルキゼデクに捧げました。これは律法が命じる前に自発的に捧げた十分の一の始まりです。律法の 什一献金(じゅういちけんきん) は廃止されましたが、賛美と感謝と共に捧げる什一献金は永遠のものです。



2. イエス様の血と新しい契約(ヨハネ 13:14-15)



イエス様は最後の晩餐の席上で杯を取り、「この杯は、わたしの血による新しい契約である」と仰いました(マタイ 26:17-22、マルコ 14:12-26、ルカ 22:3-6、ヨハネ 13:21-30)。



聖餐と新しい契約(あたらしいけいやく)



社会にも多くの誓約があります。入学誓約、入社誓約、結婚誓約など、多くの誓約があります。一般的に誓約とは、自分が資格があるということではなく、今は不十分でも、これから忠誠を尽くすという約束を意味します。聖餐は、イエス様が定められた新しい契約 です。



聖餐とイエス・キリストの血



イエス様が杯を取って語られた内容は、私たちは神の子供としての資格はありませんが、イエス様の血によって血の契約 を結べば、過去のすべての罪が赦され、新しい人を着て、神の子供らしい子供になる、ということを意味します。イエス様の血は 新しい契約のしるし となるのです。

イエス様の血は イエス様の命 を意味します。イエス様の血を受けた人だけが、イエス様の命を受けます。ですから、イエス様が私の罪を代わりに背負ってくださったという事実は、計り知れない彼の愛を示す証拠です。神様はイエス様の血を通して私と 血の契約 を結ばれたのです。この事実を絶えず 記念する儀式 が聖餐式です。したがって、私たちはイエス様がこの世に再び来られる時まで、この儀式を続けなければならないのです。

聖餐は 目に見える御言葉 です。御言葉を紙の上に書き記すことができるように、杯とパンで目の前に見ることができます。それゆえ、聖餐は、イエス様が私たちの罪を贖う(あがなう)ために死なれたという事実を、目で見て、耳で聞き、口で語り、体で行う ことができます。私たちは聖餐を通して、私たちを贖ってくださったイエス様の死を象徴的に表し、十字架につけられたイエス・キリストにあずかること を意味します。



聖餐と神人合一(しんじんごういつ)



この聖餐を通して、私たちはイエス様と一つになり、神の義 を得、霊的な食物を通して 霊的な力と喜び を供給される働きが起こります。キリストとの 神秘的な結合 を通して、私たちはキリストのように生きることを固く誓い、聖なる献身 を誓うのです。

私たちが聖餐を通して 一つのパンにあずかる者 となったという事実は、イエス様が私たちのために代わりに死んでくださったという 贖罪(しょくざい)の証拠 となります。聖書において、贖罪あるいは贖い(あがない)に関連する御言葉は、約1300回もあり、他のどの主題よりも多く記されています。どれほど重要な主題であるからこそ、聖書でそれほど多く扱われているのでしょうか。

人間は堕落によって、生まれた時から 堕落した血 を持ってこの世に出てきます。この血は、罪のない血で贖う 道以外に、他の道はありません。旧約時代には、人間の罪を贖うために 動物の血 を流して犠牲を捧げなければなりませんでした。動物の血は一度流すとき、一度の効果しかありません。それゆえ、旧約時代には贖罪が必要になるたびに動物が死ななければなりませんでした。

動物の命である血が、人間を永遠に贖うことはできません。動物の血は、一時的に人間の罪を贖う しるし、すなわち証拠 でした。神に捧げられた動物の血は、完全な贖罪のいけにえを捧げられるイエス様の血の予型であり象徴 でした。



3. パウロの解釈(11:26-29)



「26 だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのである。」



聖餐式の期間(11:26)



「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのである」とあります。

イエス・キリストの受肉(じゅにく)、彼の働き、死、復活、昇天、そして 再臨 される時まで、彼の死と結びついている聖餐式を執り行うように、と命じられました。

昇天されたイエス・キリストは、必ず 空中に再び来られます。イエス様は 花嫁、すなわち教会 を迎えに再び来られるでしょう。



ふさわしくない聖餐(11:27-28)



「27 したがって、ふさわしくないままでパンを食べ、また主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯す罪を犯すことになる。28 だから、ひとりひとりの者は、自分を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲むべきである。」

ふさわしくなく 食べ、飲む聖餐とは何を意味するのでしょうか。イエス・キリストを個人の救い主として受け入れていない状態で聖餐に臨むことです。神様に罪を悔い改めていない状態で聖餐に臨むことです。聖餐の意味を全く知らずに聖餐に臨むことです。聖餐を一般的な食事だと勘違いすることです。悪霊の杯と兼ねて聖餐に臨むことです。



聖餐に臨む態度(11:28-29)



「28 人は、自分を吟味して、その上でこのパンを食べ、この杯を飲むべきです。29 主のからだをわきまえないで飲んだり食べたりする者は、自分自身にさばきを招くことになるからです。」

上で列挙した聖餐にふさわしくなく食べ、飲むことを避け、聖餐に臨まなければなりません。主のからだをわきまえない で食べ、飲む聖餐は、聖餐ではなく、自分の罪を食べ、飲んでいる のです。

聖餐とは、キリストと一つになり、神の家族 として共に食事をすることだと言えます。家族とは、血で形成された人々の集まりを指します。犬の世界に猫が血を分かち合って加わることはできません。動物の世界に人が加わって動物の家族になることはできません。同様に、人間の家族の中に動物が加わって一つの家族になることはできません。もし疑念があったり、理解できないようでしたら、自分が最も愛する動物を一人連れて行って、役所で住民登録証や戸籍謄本に載せようとしてみてください。同様に、私の家には私を保護する天使が5人いるから戸籍に載せてくれ、と言ってみてください。できないでしょう。

したがって、神の家族 は、イエス様の血で血の契約を結んだ人々 を指します。それゆえ、永遠の火の池である地獄へ行く人々は、神の命の書に記されません。ただイエス様の血で血の契約を結んだ人だけ が神の命の書に記されるのです。



結論(けつろん)



イエス様の血によって、私たちは神の子供となる 赦しと和解 が成就しました。罪に染まった私たちの過去の血ではなく、イエス様の血を輸血 して新しい人となった私たちは、名実ともに神の子供 となったのです。

ハワイのモロカイ島に行ってハンセン病患者たちと共に生活しながら伝道した聖者 ダミアン神父 は、自分の良い家柄、門閥、富貴、名声のすべてを捨ててそこへ伝道に行きましたが、彼らは聞こうとしませんでした。そこで神にハンセン病になるようにと祈り、ハンセン病になった時、彼らが初めて理解し受け入れ、島全体が福音化されたという感動的な実話があります。

アブラハムの聖餐の予型、イエス様が制定された聖餐、パウロの聖餐に対する解釈 を深く考察し、私たちの聖餐式に適用していかなければなりません。

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