
TCC
2025年4月19日
4月20日 週報

2025年4月20日(復活主日)
題:復活の力
復活の力
The Power of the Resurrection
本文:コリント人への手紙第一 15章42-47節
42 死者の復活も、これと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえり、
43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえり、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえり、
44 動物のからだで蒔かれ、御霊にふさわしいからだによみがえるのです。動物のからだがあるように、御霊にふさわしいからだもあるのです。
45 「最初の人アダムは生きた魂となった」と書いてあるとおりです。最後のアダムは、生かす御霊となりました。
46 しかし、最初にあったのは御霊にふさわしいものではなく、動物のからだのものであり、その次に御霊にふさわしいものが来るのです。
47 第一の人は地から出て、土で造られましたが、第二の人は天から出られました。
序論
コリント人への手紙第一15章は「復活の章」と呼ばれています。それは、復活について最も多く、そして詳細に記されているからです。加えて、復活の確実性、復活の性質、復活の状態、復活の順序など、すべてが記されています。
本文では、肉のからだと霊のからだの対比、生きた魂と生かす御霊の対比、そして地から出た者と天から出られた方の対比が教えられています。
イエス様が再臨されるまでは、誰も復活しません。イエス様が再臨される時、死んだ者たちは墓から起き上がり、生きている聖徒はたちまち変えられて空中でキリストにお会いするのです。
肉のからだと霊のからだ (42-44)
朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえる (42)
「42 死者の復活も、これと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえり、」
朽ちるものとは、地の目に見えるすべての生物は朽ちるものです。しかし、復活のからだは地で生まれたのではなく、天から着せられるからだです。私たちは永遠に朽ちることのない種によって新しく生まれ変わりました。からだの復活も同様です。すべての人は必ず復活して裁きを受け、永遠の命か永遠の刑罰かが決定されます。
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえる (43)
「43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえり、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえり、」
堕落した人間の肉体は、卑しいものばかりです。悪い木からは悪い実が結ばれるように、堕落したからだからは卑しいものが現れます。ところが、卑しいもので蒔かれたのに、新しく生まれ変わった神の子どもからは栄光あるからだによみがえります。そして、病気になりやすく、老い、壊れやすく、死ぬしかない弱いからだが、反対に強いからだの復活をするのです。
魂のからだで蒔かれ、霊的なからだによみがえる (44)
「44 動物のからだで蒔かれ、御霊にふさわしいからだによみがえるのです。動物のからだがあるように、御霊にふさわしいからだもあるのです。」
肉のからだとは、魂のからだという意味です。そのからだを蒔いたのに、復活の時には神聖な霊的からだを着るようになります。肉のからだがあるように、霊のからだもあります。復活の時には霊のからだを着るようになります。
生きた魂、生かす御霊 (45)
創造と製造の違い (創世記 1:26-27)
「26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」27 神はご自身のかたちとして人を創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
26節で人を造ろうと計画を話される時に使われた単語は「造る(アサー)」という言葉で、ある材料を用いて製造するという意味です。27節で2回使われた「創造する(バラ)」は、無から有を創造する時に使う言葉です。
アダムの製造 (創世記 2:7)
「7 そして神である主は、地のちりで人を形造り【ヤツァル】、その鼻にいのちの息【ネシャマ】を吹き込まれた。そこで人は生きもの【ネフェシュ・ハヤー】となった。」
創世記2章7節で使われた単語は「形造る【ヤツァル】」という言葉です。つまり、塵を材料として神の無限の知恵によって形造り、その鼻にいのちの息【ネシャマ】を吹き込まれたところ、生きもの【ネフェシュ・ハヤー】(生きた魂)となりました。塵すなわち塵で器を作る時、作る者によってその価値が作られます(土器、陶器、磁器、レアアースから携帯電話のチップなど比較)。したがって、私たちの先祖アダムは創造ではなく製造されたと言うべきでしょう。
生きた魂と生かす御霊 (45)
「45 「最初の人アダムは生きた魂となった」と書いてあるとおりです。最後のアダムは、生かす御霊となりました。」
アダムは神が形造られた最初の人です。ルカの福音書3章の系図でも、アダムの以上(次)は神様であると記されています。アダムは神が塵を材料として形造り(ヤツァル)、その鼻にいのちの息(ネシャマ)を吹き込まれたところ、生きた魂(生きた存在)となりました。しかし不幸にも、彼らは罪を犯し堕落して死んだ魂となってしまいました。誰も自力では再び生き返ることのできない存在となってしまいました。
ところが、最後のアダムすなわち第二のアダムは、創造されたり製造されたりした人間ではありません。たとえ肉体を着て人間の中に住まわれたことがありますが、その方は永遠不変なる三位一体の神の第二位である御子なる神です。したがって、キリストは死んで復活されることによって、信じる者たちの死んだ魂を生かす御霊となられました。それだけでなく、キリストが再臨される時、最後の日には聖徒の死ぬべきからだにも霊のからだを着せる復活のからだを与えられるのです。
地から出た者と天から出られた方 (46-47)
地から出た者
「46 しかし、最初にあったのは御霊にふさわしいものではなく、動物のからだのものであり、その次に御霊にふさわしいものが来るのです。47 第一の人は地から出て、土で造られましたが、.....」
神が形造られたアダムは地のちりで作られました。そして彼にいのちの息を吹き込まれました。したがって、すべてのアダムの子孫は地のちりから出たので、土(ちり)に属する者です。
天から出られた方
「.....第二の人は天から出られました。」
第二の人すなわち最後のアダムは、人間の肉体のからだを借りて誕生されました。しかし彼は天から出られました。天から出られた方はイエス・キリストだけです。
キリストの復活、昇天、再臨
第三の天から降りて来られたイエス・キリスト以外に、第三の天に昇った者は一人もいません。イエス様がこれについて話されました(ヨハネ 3:14)。ダビデが告白しました(使徒 2:34-35)。復活されたイエス様が初めて第三の天に昇られました。イエス・キリストは第三の天におられ、世を去って第三の天に昇った人はいません。キリストはそこから空中に再臨されるでしょう。
結論
キリストの復活は確実な歴史的証拠です。復活を目撃した者たちの直接的な証拠があります。復活の性質と状態などを 살펴보았습니다(※「 살펴보았습니다」は韓国語の表現で「検討しました」「見てみました」という意味です。文脈に合わせて翻訳します)。復活の性質と状態について検討しました。
復活の順序は、キリストが復活の初穂となられ、聖徒たちの復活があり、1,000年後に全人類の復活と裁きがあります。聖徒の復活を第一の復活と言います。第一という言葉は順序を言う時に使うこともありますが、最高(特級)という意味でも使うことがあります。
復活の力は死んだ者が生き返る力です。この復活の中には、罪と死の権威に永遠に勝利する力があります。キリストの復活は聖徒の復活の根拠となります。聖徒の復活のからだは、キリストの復活のからだのようになるでしょう。私たち皆が、第一の復活、最高の特級復活にあずかる祝福された聖徒となるべきです。