10月 18日(主日)説教要約
聖なる道を歩む
イザヤ書 35章8~10節
8節 そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。それは彼らのために備えられた道であり、愚かな者が迷い込むことはない。
9節 そこには獅子もおらず、獰猛な獣もそこに上って来ず、そこには見当たらない。贖われた者たちだけがそこを歩む。
10節 主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びが彼らに追いつき、悲しみと嘆きは逃げ去る。
序論
本日の聖書箇所は、イスラエルの回復と、福音の時代において全世界に福音が広がっていくことを預言した御言葉です。また、この預言は、イエス・キリストの再臨と千年王国において、その完成を見るものと考えられます。
本日の御言葉には、神の園、まるでエデンの園のような美しい場所の姿が描かれています。そこには、贖いの恵みを受けた者だけが歩むことのできる道、すなわち「聖なる道」が現れます。
その道は、イエス・キリストを通して歩む道です。そして、その道の行き着く先には、永遠の喜びが待っています。10節には、その喜びが次のように記されています。
「楽しみと喜びが彼らに追いつき、悲しみと嘆きは逃げ去る。」
私たちは今、自分がその道に入り、歩んでいるのかどうかを確かめなければなりません。
その入口は、誰もが簡単に通れる広い門ではありません。主イエスは、狭い門から入るように教えられました。そして、私たちが歩むべき道は、イエス・キリストご自身です。
ヨハネの福音書14章6節で、主イエスはこう言われました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
イエス・キリストこそ、父なる神のもとへと至る唯一の道です。
それでは、本日の御言葉を通して、贖われた者たちが歩む聖なる道について、三つのことをともに考えていきましょう。
1.異邦人の救い(1~2節)
① 荒野と砂漠が変えられる
1節には、こう記されています。
「荒野と乾いた地は喜び、砂漠は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。」
この御言葉を、終わりの日にイスラエルが独立し、回復されることについての預言として解釈する人々がいます。
また、福音の時代において、教会を通して実現する霊的な祝福として解釈する人々もいます。
さらに、イエス・キリストの再臨とともに始まる千年王国において、完全に成就する預言として理解する人々もいます。
もしかすると、これら三つの側面すべてが、この預言を理解するうえで重要なのかもしれません。
いずれにしても、荒野と砂漠が変えられ、花が咲き乱れ、喜びに満ちた美しい園のようになるという、希望のメッセージがここにあります。
荒野とは、命が育ちにくく、乾き、何もないように見える場所です。
私たちの人生にも、そのような荒野の時があります。希望を失い、心が乾き、何をしても実を結ばないように感じる時があります。
しかし、神は荒野をそのままにしておかれるお方ではありません。
神の救いが臨むとき、荒野は喜びの場所へと変えられます。神の恵みは、私たちが不可能だと思う場所にも、新しい命と希望をもたらすのです。
② 花を咲かせ、レバノン、カルメル、シャロンの栄光を受ける
2節には、こう記されています。
「盛んに花を咲かせ、喜び躍って歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの麗しさが与えられる。」
レバノン、カルメル、シャロンは、豊かさや美しさを象徴する場所です。
レバノンは、その立派な杉で知られ、ソロモンの神殿の建築にもレバノンの杉が用いられました。
カルメルやシャロンも、豊かな自然と美しい景観で知られた地域です。乾燥した荒野と比べるならば、その違いは非常に大きなものでした。
荒野が、このような豊かで美しい場所へと変えられる。それは、神の救いによってもたらされる回復と祝福を表しています。
福音によって与えられる霊的な祝福、イスラエルの回復、そして千年王国における完成を、このような美しい言葉で表現しているのです。
③ 主の栄光、私たちの神の麗しさを見る
2節の後半には、こうあります。
「彼らは主の栄光、私たちの神の麗しさを見る。」
どれほど美しい土地であっても、「主の栄光、私たちの神の麗しさを見る」という恵みに比べることはできません。
この預言の中心は、単に荒野が美しい土地に変わるということではありません。神ご自身の栄光を見ることができるということです。
今の時代においても、私たちは信仰によって神の栄光を経験することができます。教会において福音が宣べ伝えられ、人々が救われ、神の恵みによって人生が変えられていくとき、そこに神の栄光が現れます。
しかし、神の栄光が完全に現れるのは、まだ先のことです。
この地上では、罪や死、苦しみが完全になくなったわけではありません。私たちは今も、さまざまな困難の中を歩んでいます。
けれども、神の約束は決して失われません。
やがて主が再び来られ、神の支配が完全に現されるとき、私たちは神の栄光をさらに豊かに見ることになるのです。
ですから、今が荒野のような時であっても、希望を失わないでください。
神は荒野を花咲く場所へと変えることのできるお方です。
2.霊と肉体に現れる奇跡(3~7節)
① 霊的な救い(3~4節)
3節には、こう記されています。
「弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。」
弱った手、よろめく膝とは、力を失い、立ち上がることさえ難しくなった状態を表しています。
これは、肉体的な弱さだけでなく、霊的に弱り、信仰の力を失いかけている人々の姿としても理解することができます。
信仰生活を送っていると、時には疲れ果ててしまうことがあります。
祈っても答えが見えない。御言葉を読んでも心に響かない。将来への不安に押しつぶされそうになる。信仰を持っていても、恐れや疑いが心を支配してしまうことがあります。
しかし、神はそのような私たちに、「弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ」と語られます。
神は、弱っている者を見捨てられません。むしろ、そのような者を励まし、再び立ち上がらせてくださるのです。
では、どのようにして立ち上がることができるのでしょうか。
4節には、こう記されています。
「心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ。恐れるな。見よ、あなたがたの神が、復讐をもって、神の報いをもって来られる。神は来て、あなたがたを救われる』と。」
恐れている人に必要なのは、ただ「頑張れ」と言われることではありません。
本当に必要なのは、神が来てくださるという約束です。
私たちが強くなれるのは、自分自身に力があるからではありません。神がともにいてくださるからです。
主イエスはこの世に来られ、神の救いを現してくださいました。主イエスによって神の国がもたらされ、教会を通して福音が宣べ伝えられています。
そして、主イエスが再び来られるとき、神はすべての悪を正しく裁き、ご自分の民を完全な救いへと導いてくださいます。
今、恐れを抱いている人がいるでしょうか。
将来が不安な人がいるでしょうか。
自分の力ではどうにもならない問題を抱えている人がいるでしょうか。
神の約束を思い出してください。
「強くあれ。恐れるな。」
私たちの希望は、自分の能力や状況にあるのではありません。私たちを救うために来てくださる神にあるのです。
② 肉体の癒やし(5~6節)
5~6節には、こう記されています。
「そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開かれる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように跳びはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、砂漠に川が流れるからだ。」
ここには、目の見えない人が見えるようになり、耳の聞こえない人が聞こえるようになり、歩けなかった人が歩き、話せなかった人が歌うようになるという、驚くべき回復が描かれています。
この御言葉は、イエス・キリストが地上で宣教されたとき、その御業の一部として実現しました。
主イエスは病人を癒やし、目の見えない人の目を開き、歩けない人を歩かせ、神の国が近づいたことを示されました。
その御業は、単なる病気の治療ではありませんでした。主イエスこそ、神が約束された救い主であることを示すしるしでもあったのです。
しかし、当時すべての病人が癒やされたわけではありません。今も、信仰を持つ人々が病気や苦しみを経験することがあります。
それでは、この預言は成就していないのでしょうか。
そうではありません。
主イエスによって神の救いはすでに現され始めています。そして、主が再び来られるとき、神の救いは完全なものとなります。
その日には、病も死も、今私たちを苦しめているあらゆるものも、神の最終的な勝利の前に退けられます。
私たちは今、すべての問題が解決した世界に生きているわけではありません。しかし、神がすべてを新しくしてくださる日を待ち望むことができます。
私たちの信仰は、現在の状況だけを見て希望を失うものではありません。神の約束を見つめ、主が完成してくださる救いを待ち望む信仰なのです。
③ 平和の園(7節)
7節には、こう記されています。
「焼けつく砂地は池となり、潤いのない地は水の湧くところとなる。山犬の伏していたねぐらには、草や葦やパピルスが生える。」
ここでも、乾いた砂漠が水の豊かな場所へと変えられる姿が描かれています。
水のない場所に水が湧き、命のないように見えた土地に草木が生い茂る。そこには、神がもたらされる豊かさと平和があります。
この御言葉は、霊的な回復を表すものとしても理解できます。しかし、イザヤ書35章全体の預言を読むならば、神が造られた世界そのものが回復されるという、将来の完成にも目を向ける必要があります。
聖書は、罪と悪が永遠に続くとは教えていません。神は最後に、すべての悪に勝利されます。
千年王国についての理解には、キリスト教の中でも立場の違いがありますが、少なくともこの預言が示しているのは、神がご自分の民に完全な回復と平和をもたらしてくださるという希望です。
私たちの世界には、今も争いがあり、憎しみがあり、苦しみがあります。
しかし、神のご計画の最後に待っているのは、絶望ではありません。
神の平和です。
荒野が水の湧く場所となるように、神はご自分の民を回復し、喜びに満ちた未来へと導いてくださるのです。
3.聖なる道を歩む者たち(8~10節)
① 聖なる道(8節)
8節には、こう記されています。
「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。それは彼らのために備えられた道であり、愚かな者が迷い込むことはない。」
ここで、私たちは一つの重要な言葉に注目したいと思います。
それは、「聖なる道」です。
この道は、神の聖さにふさわしい道です。神がご自分の民のために備えてくださった道です。
聖書は、人間が自分の力や正しさによって神のもとへ行けるとは教えていません。
私たちは皆、罪を犯した者です。どれほど善い行いを積み重ねても、それによって自分の罪を完全に取り除くことはできません。
では、罪ある私たちは、どうすれば聖なる神のもとへ行くことができるのでしょうか。
その答えは、イエス・キリストにあります。
イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にかかり、ご自分の血によって私たちの罪を贖ってくださいました。
私たちが神の前に立つことができるのは、自分自身が完全に正しいからではありません。キリストが私たちのために救いを成し遂げてくださったからです。
ですから、聖なる道を歩むことができるのは、キリストによって贖われた者です。
ここで注意したいのは、私たちが聖なる道を歩むのは、自分の努力で完全に清くなったからではないということです。
まず、神の恵みによって救われるのです。そして、救われた者として、聖なる道を歩むように召されているのです。
また、この道は、悪や罪が最終的に取り除かれる神の完全な救いを指し示しています。神の聖さに逆らうものは、永遠に神の御前にとどまることはできません。
私たちは、自分がどの道を歩んでいるのかを問い直さなければなりません。
世の価値観に従う道でしょうか。それとも、神の御言葉に従う道でしょうか。
自分の欲望を満たすための道でしょうか。それとも、主に従う道でしょうか。
主イエスは言われました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
聖なる道とは、キリストを信じ、キリストに従って歩む道です。
② 贖われた者たちの道(9節)
9節には、こう記されています。
「そこには獅子もおらず、獰猛な獣もそこに上って来ず、そこには見当たらない。贖われた者たちだけがそこを歩む。」
ここには、危険や恐怖のない、完全な平和の姿が描かれています。
獅子もいない。獰猛な獣もいない。人を傷つけるものも、恐れさせるものもありません。
それは、神がご自分の民に与えてくださる完全な平和を表しています。
では、この聖なる道を歩むことのできる資格は何でしょうか。
それは、贖われていることです。
贖いとは、代価を払って買い戻すことを意味します。聖書において、私たちの救いは、イエス・キリストがご自分の命をささげてくださったことによって成し遂げられました。
私たちは、自分の力で罪の支配から自由になることはできません。
どれほど努力しても、どれほど立派な人間になろうとしても、罪の問題を自分だけで解決することはできないのです。
しかし、イエス・キリストは私たちのために十字架にかかり、その尊い血によって罪の贖いを成し遂げてくださいました。
ですから、「贖われた者」とは、イエス・キリストの十字架によって罪の赦しを受けた者を意味します。
この贖いは、神の恵みです。私たちの功績によって得られるものではありません。
人間は神のかたちに造られた存在として、神との関係を回復するように招かれています。そして、その回復はキリストを通して与えられます。
私たちは、キリストの血によって贖われた者として、神の前に立つことができるのです。
さらに、9節が示しているのは、救いの完成において、神の民がもはや危険に脅かされることのない世界を歩むという希望です。
今の私たちは、まださまざまな危険や苦しみの中を歩んでいます。信仰を持っていても、困難に遭うことがあります。
しかし、神が約束してくださった救いは、苦しみの中で私たちを支え、最後には完全な平和へと導いてくれます。
だからこそ、私たちは恐れに支配されるのではなく、贖い主であるイエス・キリストに信頼して歩むことができるのです。
③ 永遠の喜びの賛美(10節)
10節には、こう記されています。
「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びが彼らに追いつき、悲しみと嘆きは逃げ去る。」
この御言葉は、イザヤ書35章の結びであり、贖われた者たちが迎える喜びの完成を描いています。
主に贖われた者たちは、喜び歌いながらシオンに帰って来ます。
その頭には、とこしえの喜びがあります。
楽しみと喜びが彼らに追いつき、悲しみと嘆きは逃げ去ります。
なんと大きな希望でしょうか。
この地上では、喜びだけの人生を送ることはできません。
愛する人との別れがあります。病気や経済的な困難があります。人間関係に悩むこともあります。祈っても、すぐには答えが与えられないこともあります。
しかし、聖書は、悲しみと嘆きが永遠に続くとは教えていません。
主イエスが再び来られ、神の救いが完成するとき、神はご自分の民を完全な喜びへと導いてくださいます。
千年王国についての理解には教派による違いがありますが、キリストの再臨、最後の裁き、そして新しい天と新しい地における永遠の命という希望は、聖書全体を貫く大切な約束です。
ヨハネの黙示録21章4節には、こう記されています。
「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。」
また、ヨハネの黙示録22章1~5節には、いのちの水の川といのちの木、そして神の御前で神に仕える者たちの姿が描かれています。
神とともに生き、神を礼拝し、永遠の喜びを味わう。それが、神がご自分の民のために備えてくださった未来です。
千年王国とその後の出来事について、聖書の預言をどのように理解するかには違いがあります。しかし、私たちが確信できることがあります。
それは、神がご自分の民を見捨てず、最後には完全な救いへと導いてくださるということです。
今は涙を流している人も、いつか神の御前で喜びに満たされる日が来ます。
今は悲しみの中にいる人も、神が約束された永遠の喜びにあずかる日が来ます。
ですから、私たちは今の苦しみだけを見て、希望を失ってはなりません。
私たちの人生の最後の言葉は、悲しみではありません。
嘆きでもありません。
神が備えてくださる永遠の喜びなのです。
結論
愛する兄弟姉妹の皆さん。
イザヤ書35章は、神に贖われた民が味わう喜びを歌った御言葉です。
荒野が花を咲かせる場所へと変えられ、弱った者が力を受け、病んだ者が癒やされ、神の民が聖なる道を歩み、最後には永遠の喜びへと導かれる。そのような神の救いの希望が、この章全体に描かれています。
そして、その救いの中心におられるのが、イエス・キリストです。
イエス・キリストの十字架の血による贖いがなければ、誰一人として自分の罪から解放され、聖なる神の御前に立つことはできません。
救いは、私たちの努力によって獲得するものではありません。神が恵みによって与えてくださる賜物です。私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、その恵みを受け取るのです。
そして、贖われた者は、神が備えてくださった聖なる道を歩みます。
その道は、イエス・キリストご自身です。
この道の行き着く先には、神の完全な平和があります。そこには、私たちを傷つけるものも、永遠に恐れさせるものもありません。悲しみと嘆きは逃げ去り、喜びと楽しみが永遠に続きます。
もちろん、私たちは今、まだその完成の中には生きていません。苦しみもあれば、悲しみもあります。時には、信仰の歩みが困難に感じられることもあります。
しかし、だからこそ、私たちは主イエスを見上げなければなりません。
主が私たちのために道を備えてくださいました。
主が私たちを贖ってくださいました。
そして主は、私たちを永遠の喜びへと導いてくださいます。
そこで、最後に一つの質問をしたいと思います。
あなたは今、その聖なる道を歩んでいるでしょうか。
あなたは、イエス・キリストを自分の救い主として信じているでしょうか。
自分の力や知恵だけに頼るのではなく、主の御言葉に従って歩んでいるでしょうか。
この世の価値観に流されるのではなく、キリストに従う道を選んでいるでしょうか。
聖なる道に入るために必要なのは、自分自身の正しさではありません。イエス・キリストの恵みです。
主イエスを信じ、その恵みによって贖われた者として、今日も聖なる道を歩んでいきましょう。
昨日も、今日も、明日も、そして永遠に。
主を賛美しながら、喜びをもって歩んでいきましょう。
その道の先には、主が約束してくださった永遠の喜びが待っているのです。
お祈りいたします。
天の父なる神様。
本日も、あなたの御言葉を通して、贖われた者たちが歩む聖なる道について教えてくださり、ありがとうございます。
私たちは自分の力では罪から解放されることができず、聖なるあなたの御前に立つこともできない者です。しかし、あなたはイエス・キリストをこの世に遣わし、十字架の血によって私たちの罪を贖ってくださいました。その大きな恵みを心から感謝いたします。
主よ、私たちが今、どの道を歩んでいるのかを確かめさせてください。世の価値観や自分の思いに従うのではなく、イエス・キリストを道として、あなたの御言葉に従って歩むことができますように。
弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせてください。恐れや不安の中にいる者に、あなたがともにおられるという確信を与えてください。荒野のような人生にも、あなたの恵みと希望が豊かに現されますように。
そして、主が再び来られ、すべての救いが完成する日を待ち望みながら、今日も忠実に歩ませてください。
私たちの悲しみと嘆きが終わり、永遠の喜びに満たされるその日まで、主を賛美し、主に従い続ける者としてください。
私たちを贖い、永遠の命への道を開いてくださった、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。